この世で命あるものには、必ず死が訪れます。
誰にも平等にやってくるものですが、死後の世界を見たことのない私たちは死を畏れます。
それは、大切な家族や恋人、友人と今生では二度と会えなくなってしまうからです。
声が聞きたくても、二度と会話をすることはできません。
大切な人の死は、計り知れない悲しみを生むでしょう。
しかしながら、死は本当に悲しむべきものなのでしょうか?
チベット死者の書には、死後の世への執着を払拭させ、成仏するためにはどうすればよいかの対処法が書かれています。
それは、次の『生』に向けての指南書でもあり、畏れるものでもなければ、悲しむべきものでもありません。
大切な人の死に直面しても、涙に暮れることなく、次の生へ送り出してあげることを考えると良いでしょう。
この経典は、チベット僧によって死者の枕元で語りかけるように読み上げられます。
遺された人が悲しめば悲しむほど、死者の魂はこの世への執着を残し、前に進めなくなってしまいます。
迷いなく次に進めるよう、すべきことを教えてくれているのがチベット死者の書です。
それでは、具体的にどのようなことが書かれているのかを詳しく見ていきましょう。
チベット死者の書とは何か
チベット死者の書とは、チベット仏教の経典であり、死者の魂が死後迷うことのないよう導いてくれるものです。
心理学者のカール・ユングが絶賛してから広く知られるようになりました。
仏教の考え方に『輪廻転生』というものがあります。
これは、生まれ変わりとも言い、死後、魂が霊界へ還ったあと、再度この人間界へ生まれてくることを繰り返すことを言います。
チベットに古くからある『ボン教』は、日本の神道に近い世界観を持ち、輪廻転生を信じていました。
そこへ仏教の世界観が加わり、今のチベット仏教に形を変えていきました。
日本でも、死者は49日間この世とあの世を彷徨うと言われていますが、チベット死者の書では49日間バルドゥと呼ばれる生の中間的世界にとどまるとされています。
バルドゥとは、仏語で中有と言い、死から次の生までの期間のことを指します。
7日間が1期であり、7期の49日まで続きます。
チベット死者の書では、このバルドゥには3段階あり、輪廻転生から解脱するにはどうしたら良いかが書かれているのです。
それでは、3段階のバルドゥがどのようなものなのか、順に見ていきましょう。
チカエ・バルドゥ
バルドゥの最初の段階が、チカエ・バルドゥです。
チカエ・バルドゥは最も天に近い世界であり、超越的な空間でもあります。
それはつまり、限りなく人間界とは遠い世界であることを意味します。
死の瞬間、クリアライトという眩しく輝く光に包まれたとき、死者は限りない畏怖を感じることでしょう。
さらに、チカエ・バルドゥで死者は平和の様相をした神々を見ることになります。
その神々の姿は、純粋無垢な本来の自分自身の姿です。
そのことを正しく認識することができれば、次のバルドゥへ進むことなく輪廻転生から解脱することができます。
また、解脱するためには、死者の書に書いてある導きに従わなければなりません。
チベット死者の書は、チベット僧が死者の枕元で語りかけるように読み上げられます。
『○○よ、聞くがよい。お前の目には今○○が見えているであろう。』
このようにして導きが伝えられていきます。
畏怖の念に捕われることなく、僧の語りかけに耳を傾けるのです。
チカエ・バルドゥのクリアライトでは、眩い光とくすんだ光の2種類の光明が現れます。
眩い光こそ本来自らが持つ仏性であることに気づくことができれば、解脱が叶います。
仏教では、下記のような考え方があります。
本来人間の心は水晶のように透明で光輝く仏性がある。しかし、煩悩にまみれて光を失ってしまうのだ。修行を積んで煩悩を捨て去り、本来の仏性を取り戻して仏になるのだ。
経典では、
と説かれているのですが、多くの死者がくすんだ光に向かってしまうようです。
眩い光を選べば解脱が達成され、輪廻転生からの解脱が叶うのです。
ここで解脱できなかった魂は、次の段階へ移行します。
チョエニ・バルドゥ
チカエ・バルドゥで解脱できなかった魂は、チョエニ・バルドゥと呼ばれる段階に移ります。
ここでは、魂が持つカルマが引き起こす幻影が現れて死者を恐怖に陥れます。
光明、色彩、音響から幻影が創られ、怒り狂った神々の襲撃を受けます。
自分の姿が爬虫類のようになったり、見たこともない化け物に変化したりします。
チベット死者の書では、下記のように説かれます。
ここで現われてくるものが何であっても、自分自身の意識が投影したものと覚えよ。これがバルドゥの出現であると見破らなくてはならない。
膨大な数の仏が目の前に現れます。
これらが、自分自身が創りだした幻影であると認識することができれば、仏となることができるのです。
神々の恐ろしい姿に恐れおののいているだけでは、輪廻転生から解脱することはできません。
しかしながら、ここで解脱をするためには、生前の修行ができていないといけないとされています。
瞑想の修練を実践していなければ、幻影が自分自身であるということが知覚できないのです。
チョエニ・バルドゥでも解脱ができなかった魂は、3つ目の段階へ移行します。
シパ・バルドゥ
チカエ・バルドゥでも、チョエニ・バルドゥでも解脱できなかった魂は、シパ・バルドゥと呼ばれる段階に移ります。
この段階が一番人間界に近い空間であるといえるでしょう。
ここで魂は、意識からなる体を持つと同時に、次に生まれる世界の幻影が現れてきます。
体を持つといっても物質的なものではないため、建物などもすり抜けて通ることができます。
家族や友人のもとへ行ってみると、嘆き悲しむ様子が間近で見えて苦悩することになるでしょう。
これが人間界への執着として残ると、解脱することができなくなります。
次の生への執着があると、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天、六道のいずれかに転生してしまいます。
そして、生前の行いが鏡に映し出されますが、これらも全て自らが創りだした幻影であることを悟ることができれば、解脱することができます。
しかし、生前に犯した罪が極めて大きい場合は解脱することができません。
だんだんと次の生で受ける体がはっきりとしてきて、カルマによって六道のどこに転生するかが決まります。
ここで解脱ができないとなれば、再生につながる母体へと進んでいくことになるのです。
それはつまり、次の世界へ転生することを表します。
チベット死者の書の経典でまずは、転生の際どの国に生まれるかを選択するときに、仏教が広まる国に生まれるように勧めます。
そして人間界かまたは天上界への転生を勧め、決して地獄、餓鬼、畜生、阿修羅界には行かないよう説かれます。
それは、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅界は四悪道とも呼ばれ、争いや苦しみしかない世界だからです。
そのため、解脱が叶わず転生する場合は、霊性や仏性を身につけるための修行ができる人間界か天上界への転生を勧められます。
カルマとは何か
『カルマ』という言葉を聞いたことがある人は多いかもしれません。
カルマとは、転生の理由となるもの、転生の背景にある心理のことを言います。
『業』と呼ばれることもありますが、宇宙を支配する因果律がカルマなのです。
人間が行う行為の結果は、今すぐに出るとは限りません。もしかしたら、来世に出るのかもしれません。
いつか、ふさわしい時と場所を選んで成熟するものなのです。
仏の悟りを開いたブッダはこう言っています。
今のあなたはかつてのあなたであり、未来のあなたは今のあなたである。
また、チベット密教の祖パドマサンバヴァはこう続けています。
過去世の自分を知りたければ、今の自分の状態を見ることだ。来世の自分を知りたければ、今の自分の行ないを見ることだ。
今起きていることには、過去のカルマが反映されています。
もし今が苦しくても、カルマを完了することができると考えれば、それはむしろ喜ぶべきことであると、チベット仏教では考えています。
もし今世でカルマを積み残してしまったら、来世に持ち越すことになってしまうからです。
私たちがいる現象界は魂の修行の場であり、それぞれ持つカルマが異なります。
どんなに辛いことがあっても、カルマ結実のため、成長のためと考えましょう。
また、悪しき習慣や恐れもカルマによるものです。
繰り返される一定のパターンがカルマであると気づき、断ち切る勇気も持ちましょう。
チベット死者の書では、カルマの法則に従い、慈悲と憐れみの心を目覚めさせてゆけば、いつか悟りの境地にたどり着けると説いています。
無知から開放され、仏性に目覚めたとき、現象界に転生することがなくなるのかもしれませんね。
輪廻転生からの脱却
チベット死者の書には、死後輪廻転生から解脱するためにはどうしたら良いかということが説かれています。
先ほどご紹介した中有、3つのバルドゥは解脱へのチャンスです。
そして、解脱できなかった魂に対して、各段階で解脱するためのアドバイスを与えています。
現象界に生まれおちた人間にとって、この世界は霊的進化を遂げるための修行の場となります。
そのため、この世で何の苦労もなく、生涯を楽しく終えることはできないのです。
全ての人間にとって、この世界は苦悩に満ちたものです。カルマを抱えながら、茨の道を歩まねばなりません。
その中で幸せを見出し他者に慈しみを与え、カルマを結実させ、悟りの境地へ向かうのです。
修行が達成された死後、3つのバルドゥを通して次の生への転生か解脱かが決まります。
現象界に生まれた赤子は、自分1人では生きていけません。
歩くこともできず、言葉を話すこともできません。これだけで儚く危うげなものです。
成長してからも、受験や競争、就職、結婚や大切な人との別れと、さまざまな困難が次々に降りかかります。
どんなに裕福な家に生まれても、幸せな家族の下に生まれても、必ず試練は誰しもにやってきます。
誰もが畏れる死にも、人間はあらがうことができません。
一方、仏の世界は苦しみもない穏やかな世界であり、輪廻転生の束縛から放たれた永遠の意識世界です。
この世の物質や快楽に執着を持っているうちは、決して解脱はかなわないのです。
まとめ
私たちは、霊的進化を遂げるためにこの現象界で人間生を生きています。
この世は修行の場ですから、どんなに裕福な家に生まれようとも、家族や友人に恵まれようとも、必ず苦しみの涙を流すことが待っています。
大切な人が死を迎えたとき、あなたは計り知れない悲しみに包まれるでしょう。
あなたが泣いている姿は、この世にとどまる49日間、大切な人にも見えています。
その悲しみが大切な人の心にこの世への執着を残してしまうことになります。
この世への執着が残ってしまうと、魂は行くべき道へ行けなくなってしまいます。
別れはつらく悲しいものですが、死は、修行を終えてひとときの開放を得た瞬間でもあります。
私達は、嘆き悲しむのではなく、感謝の気持ちを持って次に行くべき道へ送り出してあげるべきなのです。
しかし、この世がつらいからといって自ら命を投げ出すことは許されません。
そのときがくるまで、責任をもって自分の人生を全うするしかありません。
悟りの境地にたどり着いたとき、あなたの大切な人にもきっとまためぐり合うことができるでしょう。