困った時、叶えたい願いがある時、神様にお願いした経験、ありますよね?
しかし、「願い事をしたのは、どの神様ですか? 」と聞かれて、日本人で答えられる人はそう多くありません。
クリスチャンに神の名を問えば、もちろん「イエス・キリスト」だと答えるでしょうし、イスラム教徒に問えば「アラー」だと即答するでしょうが、日本人は答えられない人の方が多いです。
神の名を答えられない日本人には「信仰心」がないのでしょうか?
そんなことはありません。
日本人には、生まれたときから自然崇拝の心が根付いています。
日本人は食事をする時に「いただきます」「ごちそうさまでした」と言います。
これは、神が与えた命をもらって次へ繋げる命のリレーに敬意を払い、感謝の気持ちをあらわした言葉です。
日本人が神の名を答えられない理由、それは「自然崇拝」にルーツがあり、私たちの思う「神様」は、すなわち「八百万の神」です。
森羅万象に神が宿るとの考えから、特定の神の偶像を持たないだけなのです。
人気アニメ「千と千尋の神隠し」には、八百万の神々が日々の疲れを癒すために湯屋を訪れる描写があります。
それぞれの神様に名前はありますが、それはあまり重要視されていません。
「八百万」とされる通り、数え切れないほど神様が存在するからです。
作中でも姿形の異なる神々が方々から集まってきています。
今回は、普段私たちが意識せずに願っている八百万の神とはどんな神様なのか、掘り下げてみていきます。
神道と八百万の神とは
神道とは、古来より信仰されている日本特有の宗教です。
宗教といっても経典や戒律が存在しない、民族信仰になります。
それでいて、現代日本人の中にも、意識せずしてこの心が根付いています。
海で囲まれた島国である日本には四季があり、海、山、川、森などの自然に恵まれた国であるがゆえ、災害に悩まされることもありました。
古代日本人にとって、これらの自然災害は生命を脅かすほどの脅威であり、やがてその自然への畏怖が自然崇拝へと形を変えていきます。
五穀豊穣を願い、自然に宿る神々の機嫌を損ねないように、日本人は「八百万の神」を祭ったのです。
また、自然だけでなく、各家にも「氏神」が存在すると考えられていました。
日本人は神々に必要なときに降りてきてもらうため、その目印として「依代(よりしろ)」を立てて、八百万の神を迎えてきました。
神の機嫌を損ねないために、神々とうまく付き合っていくことが重要だったのです。
そして秋には収穫を、年末年始には一年無事に過ごせたことを感謝して、日本人は八百万の神と共存してきました。
この感謝の気持ちが、繊細な味を紡ぐ日本食にもあらわれていると言われています。
日本食に見る八百万の神とは
食事をするとき、海外ではふるまう側が「召し上がれ」と言いますが、日本ではいただく側が「いただきます」「ごちそうさま」と感謝の気持ちを込めて言います。
「もったいない」という言葉もそうですが、これらは外国語では表現ができないそうです。
八百万の神々が与えてくれた恵みに感謝し、その命をムダにすることなくいただく、その考えが日本人の精神にはあります。
鯛(たい)を例に挙げると、新鮮なうちにお刺身として頂き、翌日は炙り、さらに鯛茶としていただき、ウロコはから揚げにして、アラさえもアラ汁にして食べます。そして、残った骨は肥料として使うなど、あますことなく大切に命をいただきます。
鯨(くじら)を例に挙げると、欧米では、鯨漁で捕獲された鯨はその油と歯、髭のみとり、他の部位は廃棄していましたが、日本では、鯨肉や軟骨は食用に、血は薬用、糞さえも香料として使われていました。
「もったいない」という言葉は「ありがたき命が生かされず、ムダになってしまうことが惜しい」という意味で使われてきたそうです。
そのものがもつ値打ちを最大限に引き出したいという思いが日本人に受け継がれているのでしょう。
調味料ひとつとっても、素材がもつ「うまみ」を太陽や微生物の力を借りて、発酵させ作られています。
無添加で体に良く、食材のもつ味を引き立ててくれる調味料は、海外でも重宝されています。
こうして見ると、日本食の味の繊細さは八百万の神への信仰から生まれていると言えるのかもしれません。
このように素晴らしい食をもたらしてくれる八百万の神々は、自然の中で当たり前のように日本人の心に寄り添っていました。
目には見えない八百万の神ですが、「酒造り」や「作物」、「料理」などについて協議するために、年に一度、出雲へ集まると言われています。
その場では一体何が行われるのでしょうか。詳しく見ていきましょう。
八百万の神々は10月に出雲大社に集まる
10月は「神無月(かんなづき)」と呼ばれますが、この由来は八百万の神々が全国から一斉に出雲へ集まるため、「神様が留守になる=神様がい無くなる」から来ているというのは有名な話です。
逆に、出雲では10月を八百万の神が集まるので、「神在月(かみありづき)」と呼ぶそうです。
出雲に集まった八百万の神は、一年の取り決めについて協議するために「神議り(かみはかり)」を行います。
ここで行われるのは、五穀豊穣や繁栄に加えて、縁結びについても大国主大神のもと話し合われるんだそうです。
この時期、出雲の人々は神々の協議の邪魔をしないよう、芸事や舞曲、散髪や爪切りまでも控えたと言われています。
なぜ出雲なのかは、日本書紀の国譲り物語にもとづく説が通説となっています。
出雲を本拠とする大国主大神が天照大御神に国土を献上する際、その統治権を譲るかわりに神事を統治するという取り交わしを行ったため、神事を協議する神議り(かみはかり)では大国主大神の出雲へ神々が集まってくるとされています。
なぜ10月なのかは諸説あり、神々の母であるイザナミが黄泉の国へ旅立ったのが10月であるからという説や出雲の祭神は10月にのみ日本を統治するからという説があります。
八百万の神々が一斉に出雲大社へ集まってくる様を想像してみると、とても荘厳ですよね。
国内外ともに大ヒットを記録したジブリアニメ「千と千尋の神隠し」では、夕暮れの刻になると明かりが灯り、世界中から神々が集まってきます。
私たちは神様の姿を見ることはできませんが、10月になると出雲にもこんなふうに八百万の神が集まってきているのかもしれません。
千と千尋の神隠しに出てくる八百万の神
「千と千尋の神隠し」の作中で描かれる「湯屋」には八百万の神が疲れを癒しにやってきます。
神様たちの名前を大々的に紹介する描写はありませんが、実はそれぞれの神様にはしっかり名前があります。
それでは見ていきましょう。
1.オクサレサマ
千と千尋の神隠しを見たことのある人が一番記憶に残っているのがこの神様かもしれません。
主人公である千尋がこの神様が身にまとっていた汚泥やゴミを取り除き、オクサレサマが本来の姿を取り戻します。
八百万の神は人々の病や不幸、負の念などをその身に引き受けるため、恐ろしい姿をしていると言われています。
オクサレサマも自然を汚す人間の心や行為を引き受けて、あのような姿になってしまったのかもしれませんね。
2.オシラサマ
千尋がエレベーターで乗り合わせる、大根のような見た目の白く大きい神様がオシラサマです。
オシラサマは東北地方に伝わる農業の神様ですが、隠語で「シラける客」という意味があるそうです。
作中でオシラサマは千尋を助けてくれますが、決して言葉を発することはありません。
たとえよい人でも、お酒の席で話をしないとシラけてしまう、という暗喩になっています。
3.カスガサマ
遊覧船から団体でやってきた貴族のような神様がカスガサマです。
カスガサマは春日大社をあらわしているそうで、お面には春日大社のお札をつけています。
春日大社は全国に分社がありますから、カスガサマも団体でやってきたのかもしれませんね。
隠語では「チップを払わないケチな客」という意味があるそうです。
4.オオトリサマ
大勢で温泉に浸かっているヒヨコの姿をした神様がオオトリサマです。
卵のまま、この世に生まれて来られなかったヒヨコの神様です。
見た目の可愛さから人気のある神様だそうですが、実は切ない背景があったのですね。
オオトリサマは私たちが毎日のように命を頂いている卵の神様なんです。
5.オナマサマ
見た目のとおり、秋田のナマハゲを彷彿とさせる姿の神様です。
ナマケモノを懲らしめるため、怖い外見をしています。
6.牛鬼
角が生え、鬼のようなイカツイ外見をした妖怪が牛鬼です。
牛鬼はおしゃべりで神界の秘密をもらしてしまったため、神様に罰を与えられました。
当初は妖怪の姿をしていたそうですが、5代目からは人間の姿になったと言われています。
千と千尋の神隠しでは、神様のお供として出てきます。
7.カオナシ
作中、かなり重要な役割で出てくるカオナシも、実は神様です。
ですが、「カオ」とは「資格」を意味し、カオナシは湯屋で遊ぶ資格のない神様をあらわしています。
本来入ってはいけないため、外に佇んでいたわけですが、千尋が招き入れてしまったため、騒動に発展します。
カオナシは居場所がわからなくなってしまった現代人の暗喩だと言われています。
キリストと八百万の神の違い
八百万の神を考える際によく比較で挙げられるのがキリストです。
八百万の神は万能ではありません。それゆえ森羅万象たくさんの神様が存在します。
一方、キリストは唯一絶対の万能神です。
神との契約は絶対で、破れば許しを請う必要がありました。
日本人はクリスマスのお祝いをした一週間後には神社へ初詣に行き、家にある仏壇にお線香をあげながら、教会で挙式をする人もいます。
これらの日本の慣習は一神教を崇拝する人から見れば理解できないでしょうが、異なる文化を受け入れる素地が日本人にはあるといえるでしょう。
ところで、古来より伝わる七福神も、日本出身の神様は「恵比寿様だけ」であることをご存知ですか?
実は、他3名は中国出身、他3名はインド出身だそうです。
日本人は他国の文化にも寛容で、排他的にならない器用な国民性であったがゆえ、七福神は生まれたと言えるでしょう。
日本人は他国の文化さえも日本の風土に合わせて取り入れることがとても上手だったのですね。
キリスト教では、神様と共存することは考えられないことですが、千と千尋の神隠しでは、お客様としてやってくる神様と給仕をするカエル、迷い込んでしまった人間(千尋)など様々な種族が同じ場所に存在しています。
そして、神様の機嫌を損ねないように奉仕するという描写は、日本人にとって八百万の神はうまく付き合っていかなければならない身近な存在であった、ということをあらわしているのでしょう。
まとめ
姿の見えない「八百万の神」は、森羅万象全てのものに神が宿るという自然崇拝の考えから生まれた日本独特の信仰です。
その背景には、器用な日本人の国民性が存在しています。
八百万の神は万能ではなく、それぞれに強みや特徴が異なり、ある意味では人間とそう変わりない存在なのかもしれません。
それを前提に千と千尋の神隠しを観てみると、新しい発見があるはずです。