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安倍晴明で有名な陰陽師とは? 知っておきたい7つのコト

陰陽師とは

陰陽師と言うと、漫画や小説、映画などでも数多く題材とされてきた、安倍晴明が有名です。

その影響もあって、陰陽師は人に憑りつく悪鬼を退治し、都の人々を救うヒーローというイメージが強くありますが、実際の陰陽師とはどんな役割を持っていたのでしょうか?

今回は、陰陽師の歴史から、陰陽道がどのようなものだったのか、7つに分けてお伝えいたします。




陰陽師の歴史(古墳~飛鳥時代)

『中国から来た陰陽五行思想と陰陽家』

陰陽道を語る上で、どうしてもその歴史に触れない訳にはいきません。

少々長くなりますので、読むのが面倒でしたら、小見出しを見ていただくだけでも、何となくわかるようにしておきます。

奈良時代、平安時代のイメージが強い陰陽道ですが、その思想は、実はそれよりも早くに日本に伝わっていました。

そもそもは陰陽師という言い方はせず、古代中国の諸子百家の一つで、陰陽五行説を応用した思想を持つ集団であり、『陰陽家』と呼ばれていました。

日本に伝わったのは古墳時代といわれていますが、その時には陰陽五行思想を理解する者が少なく、あまり定着はしませんでした。

飛鳥時代に入り、595年(推古天皇3年)に高句麗から慧慈(えじ)が渡来し、本格的に仏法陰陽五行思想を日本に広めました。

このころから、陰陽五行思想は政治への力を持ち始め、朝廷内の陰陽家たちのための機関である『陰陽寮』が設立されたのです。

また慧慈は、厩戸皇子(聖徳太子)の仏法の師でもあることから、実は日本人として最初の正当な陰陽家は、聖徳太子だったのではないか? という説もありますが、弥生から古墳時代にかけて存在したといわれる、呪術師『方相氏』が日本最古の陰陽家だったのではないかという説もあり、憶測の域を出ておりません。

陰陽師の歴史(奈良~平安時代)

『日本独自の陰陽道の確立と陰陽師』

奈良時代になる頃、伝来した仏教と道教に、日本古来の神道と密教(修験道)の要素を混合させ、日本独自の進化を遂げた学問が『陰陽道』です。

この陰陽道を駆使し、この世における様々な現象を、調査、検証、推理し、吉凶を占い、貴族たちにアドバイスする、学者と占い師が合わさったような存在が陰陽師でした。

陰陽師とは、律令制における役職の一つで、今でいうところの国家公務員です。

陰陽師が所属する陰陽寮は、国家機密機関として扱われ、ゆえに、陰陽道は一般の人間が学ぶことは許されていませんでした。

平安時代に入ってからも、陰陽師の主な仕事は、天文学からくる占星術と、風水などの方位学を利用した占いで、暦や節季の予想、地相学を活かした都市計画、気象予報などを行っており、陰陽寮は当時の日本で最大の頭脳集団でもありました。

また、この流れから、本来は呪禁師が行うような退魔行をすることもあり、貴族たちの政権争いで敗死した者たちの怨霊や鬼と戦い、人々を守ったという逸話もあります。

菅原道真平将門などの怨霊の話は特に有名で、現在ではこういった、オカルト的な話の方で陰陽師を知る人が多くなっています。

日本で最も有名な陰陽師、安倍晴明が登場するのもこの時代で、朝廷では、賀茂家と安倍家が陰陽寮の二大勢力として活躍していました。

この頃の貴族たちは、政権争いと謀略に明け暮れ、たたりや悪霊、怨霊に怯えており、事あるごとに陰陽師に頼りきっていたため、よからぬ欲望を抱く悪徳な陰陽師も増えてしまいました。

そういった陰陽師たちは、現代で少し前に話題になった悪徳占い師のように、陰陽道の力を欲得のために利用し、影で貴族たちを操り、政権をも操り始めました。

そのことに危機を覚えた賀茂家と安倍家は、陰陽道を世襲化したため、陰陽道の進歩発展が削がれ、良い陰陽師が育たなくなってしまいました。

また、陰陽寮の機密性が崩れ始め、禁止されていたにも関わらず、民間の中で陰陽道が広まっていったのもこの頃です。

この陰陽師たちは、隠れ陰陽師民間陰陽師、または法師と呼ばれ、被差別部落などに隠れ住み、地域性なども加わって、呪術色を深めながら、独自の広がりを見せるようになりました。

安倍晴明に匹敵するほどの陰陽師であり、小説などではそのライバルとして描かれる事が多い、播磨国の蘆屋道満(あしやどうまん)もその中の一人です。

陰陽師の歴史(鎌倉~戦国時代)

『民間陰陽師の広がりと正統派宮廷内陰陽道の終焉』

鎌倉、室町時代になると、朝廷の政治力が弱まり、官僚であった陰陽師もまた、その勢力を失いつつありました。

しかし、将軍足利義満が朝廷に対抗するため、陰陽師を重用し、政治に利用する傍ら、安倍晴明の子孫である安倍有世やその分家に、国家機密であった陰陽道をあえて民間に広めさせたことで、また陰陽道は盛り上がりをみせました。

と思いきや、次の将軍である足利義持の世になると、朝廷と神仏を重んじたため、また衰退。

そして戦国時代、血気盛んな武将たちの時代です。

陰陽寮に属する陰陽師の言葉に耳を貸すものは一気に少なくなり、陰陽師として二大勢力を誇った賀茂家は、その血筋を断絶、安倍家も徐々に衰退しつつありました。

ただし、民間では怪しい祈祷や占術も含め陰陽道が広まり続け、山本勘助をはじめとした戦国時代を代表するような軍師たちも、陰陽道に由来する知識を持ち、戦の利とするものが多かったそうです。

天下人となった豊臣秀吉は陰陽師を嫌い、陰陽師の弾圧をしたため、宮廷内の由緒正しい陰陽道は終わりを告げたのです。

陰陽師の歴史(江戸~明治時代)

『陰陽道の民間への定着と陰陽寮の廃止』

徳川の世となる江戸時代、陰陽道の統制が始まりました。

しかし、徳川家康は豊臣秀吉と違い、陰陽道を根絶やしにするのではなく、朝廷から追いやられた安倍有世の子孫にあたる土御門久脩(つちみかど ひさなが)を陰陽道の宗家とし、陰陽師は宮廷出仕を再開、その学問と知識を幕府のために利用することにしました。

徳川綱吉の世になり、霊元天皇から土御門家に、『諸国の陰陽道の支配を土御門家に任せる』 という綸旨(りんじ)がくだされ、陰陽師の統括と、造暦の権利を掌握することに。

政治に影響することはなくなりましたが、有能で安倍晴明を崇拝していた民間陰陽師たちを取り込みながら、暦を作成したり、建築物の地相を調べたりと、本来の陰陽師の仕事に戻り、陰陽道はさらに民間に定着していくようになりました。

明治初期、『近代科学を導入するための反対勢力となる』とみなされた陰陽道は、『迷信である』という烙印を押され、ついに明治3年に陰陽寮は完全に廃止されました。

当然、陰陽師の身分もなくなり、多くの陰陽師が庇護を無くし、転職をしたり、陰陽道を基盤とした独自の宗教活動を始めることになりました。

せっかく統制された陰陽師でしたが、結局、由緒正しい陰陽師もろとも、習俗や信仰と習合しながら、民間の生活に溶け込んでいったのです。

職業として見る陰陽師

簡単ではありますが、歴史を紐解くことにより、陰陽道とは、いわゆる中国の陰陽五行思想がベースになっているものの、他の宗教や日本古来の宗教学問の習合により、日本固有のものに進化したものであることがおわかりいただけたのではないでしょうか?

では、もう少し具体的に、陰陽師を『職業』として見ていきましょう。

『陰陽師とは』

陰陽道を習得した人で、朝廷内の機関『陰陽寮』に属する官人(今でいう国家公務員)です。

逆にいうならば、本来、陰陽道を習得していても、陰陽寮に属していなければ、陰陽師ではないといえます。

ただし、陰陽寮に属しているからといって、全てが陰陽師ではありません。

あくまでも機関であるかぎり、中には事務担当、書記、資料担当などの作業をする人も在籍していました。

『陰陽寮の主なしくみ』

四等官制が敷かれたため、陰陽頭をはじめとし、4人の各博士と、実践的、技術的な陰陽師、そのほか、先ほどの事務雑務(庶務)の担当で成り立っていました。

陰陽頭(おんようのかみ) : 実質、陰陽寮で一番偉い人

陰陽博士 (おんようのはくじ): 占筮や地相を見たり、陰陽師を養成する仕事

天文博士 (てんもんのはくじ) : 天文観測から占星術をおこなったり、天文の教育をする仕事

暦博士(れきのはくじ) : 暦を編纂し作成したり、暦読みを教育する仕事

漏刻博士(ろうこくのはくじ) : 水時計(漏刻)を管理して時報を司る仕事

ちなみに、勘違いされがちですが、安倍晴明は陰陽頭にはなっていません。

晴明ほどの陰陽師でも昇ることが叶わなかったとも、話はあったが断っていたとも伝えられており、その実は定かではありません。

怨霊や悪鬼と戦ったのは本当の話?

陰陽寮の仕事が星見や暦管理ならば、現代メディアにおける陰陽師が呪術を使うのは何で? と疑問に思われる方もいるでしょう。

主な要因としては、平安以降、民間陰陽師が広がったために、怪しげな宗教や、呪術師の総称として『陰陽師』とされたことが考えられます。

しかし、それだけでは安倍晴明が数々の怨霊や鬼と戦う逸話は生まれません。

歴史の中で少し触れていますが、平安時代には『陰陽寮』と同じく朝廷内の『典薬寮(てんやくりょう)』に属していた、道教の呪術に影響された『呪禁師(じゅごんし)』という職業がありました。

典薬寮という名前から、何となくわかるかもしれませんが、呪禁や呪術を使って、病の原因となる邪気を祓い、治療するのが仕事でした。

しかし、厭魅蠱毒(えんみこどく)という呪禁を用いた事件が続発したこと、同じく道教の呪術を取り入れた陰陽道が朝廷内の主流になった事もあり、呪禁師は廃止され、その仕事は陰陽寮に引き継がれました。

それまでは、占筮(せんぜい)で吉凶を占うだけでしたが、呪禁も陰陽師の仕事に含まれたという事です。

このことから、安倍晴明の逸話をどこまで史実と捉えるかは別として、陰陽師が呪禁を用いて、呪詛や呪詛返し、退魔などの仕事もしていた、ということは事実といえるでしょう。

現代に陰陽師は存在するの?

明治初期までは、安倍晴明の流れを受け継いだ土御門家が、陰陽師の統制と統括のため、優れた陰陽道の使い手に免許状与えていました。

しかし、陰陽寮が廃止されて以降は、免許状を発行することもなくなったので、どれだけ陰陽道に詳しかろうと、陰陽道の専門家だろうと、本来の陰陽師と名乗れる存在はいなくなりました。

近年、教員免許がないのに学校で教えていたり、医師免許がないのに医療行為をおこなったという事件がありました。

もっと身近なところで言うならば、無免許運転などもそれと同じことで、陰陽寮から発行された陰陽師の免許状がなければ、陰陽師ではないということです。

福井県には、安倍晴明の流れを受け継いでいる、『天社土御門神道本庁(てんしゃ つちみかどしんどうほんちょう)』が存在しています。

土御門神道は、陰陽道に垂加神道(すいかしんどう)を取り入れた、独自の神道理論から形成されたものであり、現代の陰陽道とも考えられますが、その陰陽道宗家であっても、陰陽師と名乗ってはいません。

メディアの広がりにより、陰陽道を使う人=陰陽師と呼んでしまっているという事実はありますが、現代で陰陽師を名乗っている人は『自称』と言わざるを得ません。

ただし、あくまでも『厳密に言えば』という話で、安倍晴明の直系の子孫の方や、真摯に陰陽道を追求し、その知恵と術で社会に貢献している人もいるので、自称だからといって、必ずしも胡散臭いものとは言えません。

時代とともに言葉が変わっていくのと同じように、陰陽師という名前やその意味も変わったと思えば良いのかもしれませんね。

まとめ

いかがでしたでしょうか?

陰陽道や陰陽師を語るには、まだまだ言葉足らずですが、歴史や思想や成り立ちはさておき、陰陽師とは職業であるということ、そしてスーパー頭脳集団であったということを、ご理解いただけたのではないでしょうか?

史実と伝説がごちゃまぜになっているとはいえ、陰陽師がヒーロー視されるのには、それ相応の理由があったのですね。

いつかタイムマシンができたら、本物の陰陽師に会ってみたいものです。

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