お釈迦様は言わずと知れた仏教の開祖です。
生誕については諸説ありますが、紀元前6世紀から5世紀ごろ現在のインド北部(ネパ-ルとの国境付近)に誕生したと云われています。
伝説によると、生まれた途端、七歩歩いて右手で天を指し、左手で地を指して『天上天下唯我独尊(てんじょうてんげ・ゆいがどくそん)』と話したと伝えられています。
王子として裕福な家柄に生まれましたが、人生には『生・老・病・死』の4つの苦しみがあることに目覚め、29歳のとき出家します。
難行苦行の末、35歳にして悟りを開き、衆生を救済するため仏教を開きました。
その教えは、2500年の時を超え、現代に伝承されています。
一過性のブ-ムは、その時々で消え去っていきますが、『本物』には、歴史と重みがあります。
何百年、何千年の歳月が流れ時代が変わっても、そこには現在に通じる真理があるからです。お釈迦様の教えを学び実践することを通じて、ビジネスや日常生活に生かすことはこれからの充実した人生を送る上で大変意義のあることです。
とは言え、仏教の経典は膨大であるとともに、一般には極めて難解であることも事実です。
単に読んだり聞いただけで理解できるほど浅くありません。
その意味において、ここで釈迦の教えを説くにあたっても、経典にあるような難解な言葉の意味を説明することよりも、釈迦の教えを現代社会に如何に活用するか、という視点からわかりやすくお伝えすることの方が、日常に生かされると考えました。
『天上天下唯我独尊』の意味
釈迦は、生まれてすぐに七歩歩いて右手で天を指し、左手で地を指して『天上天下唯我独尊』と云われた、と伝えられています。釈迦を崇(あが)める言葉として使われています。
しかし、しばしば誤解して使われることがあります。
『この世で一番尊いのは自分である。なぜなら自分という存在はこの世に一人しかいないからである。』
という拡大解釈から
『自己中心』とか『傍若無人』と同じ意味で使われることがあります。
長い歳月の中で、漢字を直訳して勝手に一人歩きしてしまったのではないかと思われます。
もしも、このような意味だと思い込んでいる場合は、正しい意味を知り、これからの生き方に生かしていただきたいと思います。
わかりやすく言うと
『自分という存在は誰にも変わることのできない人間として、生まれており、この命のまま尊い。』
ということが本来の意味です。
現実の世界に置き換えると、人間の命の尊さは、能力、学歴、地位、名誉、財産などの有無を超えて、そのままで尊い『自分』を見だすことの大切さを教えている言葉なのです。
世の中は、とかく何事にも優劣をつけ他人と比較して優越感に浸ったり、劣等感に陥ってしまいがちてす。
しかし、この言葉の真意を知れば、この世に唯一無二のかけがえのない自分という存在がオンリ-ワンだということに目覚めれば、他人と比較して傷つく必要など全くないものであると同時に、他人より優れたものがあったからといって、おごり高ぶるものではない、ということに気づくはずです。
様々な人生の壁にぶち当って、心が折れそうになったときには、この教えが生きる勇気を与えてくれるでしょう。
知識は実践して得た感覚を根拠にせよ
釈迦は一国の王子という裕福な家柄に生まれたにもかかわわらず、その全てを捨てて出家したのは次の理由によるものでした。
『人間が、権力や財力などあらゆるものを手にしたとしても逃れられない恐怖がある。それが死である。』
そのことに目覚めたとき、地位や権力などどうでもよくなったのです。
命ある者には必ず『死』が訪れます。しかし、『死』の恐怖から逃れようとしても逃れることはできません。それでも、人間はどうしたら死の恐怖から逃れられるのだろうか、と悩み考えます。
そこに『天国』とか『神』など知的観念の元に様々な思想家が救われる方法を唱えましたが、釈迦は『梵網経』という経典の中で、それを一刀両断に『妄想』だとして切り捨てています。
釈迦のいう『一切』とは何か、という問いに対し、物体、感触、観念だといっています。そして『感覚によって得たものを知識根拠とせよ』といっています。つまり、死とは何か、と観念的に唱えてもそれは頭で考えたことで妄想である。『知識というのは、実践して感覚によって得たものでなければすべて妄想に過ぎない』ということを言いたかったのだと思われます。
これを現代社会に当てはめてみると、特に日本人は知識や情報に反応しやすい特性があるようです。
例えば、書店で『お金持ちになる方法』といったタイトルの本が目に飛び込んだとき、購入したとします。この本を読めばお金持ちになれる、と考えて一生懸命熟読しました。そして内容を全てマスタ-しました。随分知識が豊富になったような気がします。ところが、中々思ったとおりの結果が出ません。このような経験をお持ちの方は結構多いのではないでしょうか。これが本ではなくセミナ-に参加した場合も同じなのですが、なぜ結果が出ないのでしょうか。
その理由は釈迦の教えの中にあります。
本の著者やセミナ-の講師は自らの体験から身につけたものであるのに対し、読者やセミナ-のリスナ-は疑似体験であり頭の中で想像しただけに過ぎないからです。つまり、知識だけでは何も機能しません。
そこに実践が加わることによって感覚で理解できるようになります。
そこに至って初めて知恵が働き結果に結びつくのです。高度情報化社会に生きる現代人は、とかく知識が豊富であることが、時代の先端を走っている、と考える風潮があります。しかし、それだけでは単なる『物知り』の域を超えることはできないでしょう。そこに実践体験が伴われて初めて知恵が生まれ、生かされていくことを知らなければなりません。
結果には全て原因がある
仏教では、『この世に偶然起こることは何もない。』という教えが基礎となっています。
釈迦は、『結果に偶然はない。物事には全て原因がある。』と教えています。
これを仏教では『因果応報』とか『カルマ』といいます。この中には、不幸な結果だけではなく、幸福も含まれます。
至るところで、『不運』に関する話があります。
裕福で健康に恵まれた他人を見て、『幸運』だ、と多くの人が言いますが、仏教では『運』というものはない、と教えています。
良い原因が良い結果を生み出し、悪い原因が悪い結果を生み出すのです。もしも私たちが不幸だとしたら、私たち自身が原因を作り出したからであり、誰のせいでもないのです。善良な行いをしている人に不幸なことばかり訪れる、という人がいます。
このような場合、釈迦は過去生の悪いカルマを今生で刈り入れていると教えています。
これとは逆に、悪い行いの人が経済的に栄えたり、社会的に高い地位を築いたりしている人を多く見かけます。
しかし、彼らの蒔いている悪い種はいずれ不幸を実らせることになる、ということを私たちはよく見てきています。善も悪も、全て私たちの想念が生み出すものであり、良かれ悪しかれ現在の結果は自分の想いの通りになっている、ということです。
私たちは、我欲の執着からなかなか逃れられません。
特に現代のようにめまぐるしい競争社会の中で生きていると、自分では悪意がないつもりでも、誰かを傷つけたり犠牲にしていることが多々あります。それに気づかずにいるうち、その因子はやがて自分にかえってくることになるでしょう。また、他人を陥れようなどと悪意を持った想いでいると、やがて自分に跳ね返ってきます。
想いが将来の結果を招くことを知れば、利己的な考えやネガティブな想いを持たず、利他的にポジティブな想いで生きていくことが、やがて自分に幸福がもたらされることになります。全ては、日ごろの心がけ次第ということです。
あらゆるものは絶えず姿・形を変え同じところに留まっていることはない
命あるものは、誕生し成長しやがて老いて死を迎えます。物体も歳月の経過と共に、破損し朽ちていきます。雄大な山も長い年月の間に姿・形が変わっていきます。人の心も変わり続けていきます。
諸行無常という教えです。
平家の盛衰を著した平家物語の一説に出てくる言葉で知られています。
『平家にあらずんば人にあらず』
…隆盛を極めおごり高ぶった時代の平家の権勢を表した有名な言葉です。
『おごれる平氏久しからず』
…その平氏が源氏に敗れ、哀れに滅び去ったことを揶揄(やゆ)した言葉です。
平家でない者は、人ではない、とまでその栄華を誇った平家でも、永遠に続くことはなかったのです。
釈迦は、自然も、人も、心も、物体も…あらゆるものはそのままで留まっていることはなく、必ず姿、形を変えていく、ということを説きました。あらゆるものの中には、富や権力や名声なども含まれます。
歴史上においても、現代社会においても、功成り名を遂げた成功者といわれる人でも、晩節には一代で築き上げた名声を一瞬にして失い、哀れな晩年を迎えた人を私たちは何人も知っています。
歴史とは、『諸行無常の歴史』と言い換えることができるでしょう。
仏典では、三つの真理が説かれています。
- 悲しみは全てにやってくる。
- 永遠のものは何もない。
- 『我』さえも常に移ろっている。
この中で最も重要なのは②で、あらゆるものは変わり続ける、その変化は良くも悪くもなりうる、という法則です。
現代社会に生きる私たちにとって、この教えは様々な心得を示しています。
現在、経済的にも社会的地位にも恵まれ、家族全員が健康で幸福の頂点にいたとしても、このままの状態が永遠に続くとは限らないということです。
将来にわたって幸福であり続けるためには、日ごろから良い思いをもって生きていくことが大切だということです。
もしも、この状態に慢心して邪念や我欲に執着したりすると、やがて不幸に見舞われてしまうということです。
また、現在不幸な状態にあえいでいたとしても、日々良い思いをもって生きていれば必ず幸福が訪れるときがやってくる、ということです。
陰と陽のバランスをとって生きること
あらゆるものは、一対になってバランスをとりながら成り立っています。
天と地、太陽と地球・陸と海、男と女…このように必ず一対の両極をなしています。仏教では生きていくための規則として、陽(積極的)陰(消極的)という考え方があります。これを五戒、八正道といいます。
最初の5つは陰の規則です。(五戒)
- 殺人など残酷な行為をしてはいけない。
- 盗んではいけない。
- 不貞などの性行為をしてはいけない。
- 嘘をついてはいけない。
- 麻薬や酒など心身に毒となるものに酔ってはいけない。
つまり、してはならない行為です。
これは誰にでもわかる常識なのですが、多くの人が幸福になれない理由に、陰の規則(五戒)を実践するだけで陽の規則(八正道)の実践が不十分であると指摘します。
何も悪いことをしていないのに、不幸だ、と思っている人は、悪いことしていない代わり良いこともしていない、ということになります。
つまり、『悪いことはしない。』『良いことをする。』という両極をいずれも実践しなければバランスを崩してしまうという教えです。
『悪いことはしない。』というだけでは、一極に偏っているための物事が成就しない、ということです。
釈迦は、陽の規則『八正道』の教えを説いています。
- 正しい理解(正見)
- 正しい思考(正思惟)
- 正しい言葉(正語)
- 正しい行為(正行)
- 正しい仕事(正業)
- 正しい努力(正精進)
- 正しい気づき(正念)
- 正しい集中(正定)
この八正道の教えは、奥の深いものがあります。言葉で、解説することは出来てもそれだけでは意味を持ちません。
ただここでいう『正しい』とは、我執を捨て無私の考え方をもって実践することが、基本に流れています。
人間は、我欲、我執のがんじがらめになっている一面があります。自己中心的な発想で捉える限り、誤った判断、誤った行為を行ってしまいます。読んで聞くだけでは、この深淵に近づくことは出来ません。
大切にことは、単に言葉に従うとか規則に従うことではなく、日常的に毎日実践し習慣化することにあるのです。
まとめ
いかがでしたでしょうか?
釈迦が難行苦行の末に悟った真理は、2500年以上もの時を超えた現在でも、生きる上での様々な知恵を授けていただいています。
しかし、忘れてならないのは、仏教の経典を丸暗記したり盲目的に従うだけでは、殆ど意味を持ちません。
肝心なことは、実践すること、体験すること、しかも気が向いた時ということではなく、常日頃から生きていく日常の中で習慣化することなのです。
高度情報化社会に生きる現代人は、知識のあることが優れている、と思い違いしている風潮があります。
知識は、身につけて機能するものでなければ、どんなに釈迦の教えを頭の中でマスタ-しても大した役には立ちません。生きる知恵に特効薬はないということを知ることが、大切なのです。
HPでタロットカードの解釈を作成しようと思っています。で、1番のマジシャンのカードが右手が上で、左手が下を指しているポーズが、お釈迦様に似ているので、写真と、「他人と比較して傷つくことはない」あたりの文言を引用させていただいても構いませんか?
高山さん
どうぞ、お使いになってください。
お邪魔致します。この逸話は、インドでもレリーフなどで散見できますが、「ブッダのことば(原典:スッタニパータ)」には、この話が出ていませんでした。原始仏典とされるものを読みますと、お釈迦様の直言というよりも後世の逸話に思えてきました。
しかしながら、インドの風土を推察しますと、後世の信徒によって比喩的に表現されたものと読み解けば、軽んじることもできないです。調べましたら、インドでは、「二度生れる」という独特の表現があるそうです。赤ちゃんとしての誕生をブッダの誕生(成仏)になぞらえれば、また印象が違ってきます。この8文字の文句は、単なる事実ではないかとおもいました。
はじめまして。
ブログに写真を載せてます。今回、セイバンモロコシを載せる為花言葉を調べると
唯我独尊でした。
この意味を引用させて頂いてもよろしいでしょうか?
はい。引用ください。