仏教徒ではなくとも、輪廻転生や涅槃(ねはん)という言葉は多くの人に知られています。
しかし、仏典を実際に読んだことがあるという人はかなり少ないのではないでしょうか。
仏典には、ブッダの教えが説かれています。
それも、難しい内容ではなく、日常生活で至らない点の反省を促し、よりよい人生を送るための指針となるような教えです。
もし「今の人生に疲れた・・・」と感じている人がいたとしたら、ぜひ読んでいただきたい1冊といえるでしょう。
ダンマパダは、中村元氏によって親しみやすい表現で訳されており、『ブッダの真理のことば 感興のことば』というタイトルで書籍が発売されています。
後代の解釈として多くの注釈がついているので、仏教初心者でも理解しやすい内容になっています。
中でも注目して頂きたいのが『苦しみ』と『恨み』についての章です。
『苦しみ』と『恨み』は、人間が抱く感情の中でもマイナスのエネルギーをともなうもの。
それら負の感情を消化する術を知らずに過ごすのは、辛いものです。
ダンマパダでは、心の持ちようによって、それらの苦しみを克服できると説かれています。
人間界に生まれたからには、魂の修行のために色々な辛い経験もしなければなりません。
こと生、老、病、死における人間の恐怖は、計りしれないものがあります。
ダンマパダとは
ダンマパダ(Dhammapada)は、パーリ語で書かれた仏典のことをいい、漢語では『法句経(ほっくきょう)』と呼ばれています。
ブッダの教えをまとめたものの中では、最も有名な経典であると言えるでしょう。
『ダンマ』は『法』、『パダ』は『ことば』という意味があり、『人間の真理のことば』と訳されています。
日本で手に入れられるダンマパダとして、中村元氏が訳した『ブッダの真理のことば 感興のことば』という書籍があります。
全26章423句でまとめられており、84ページに渡る注釈が添えられ、とてもわかりやすい内容になっています。
あまり仏教には馴染みのない人でも、日常生活に当てはめて考えることができ、実生活の中で役立てられる構成が親しみやすさを感じます。
仏教にも色々宗派があり、それぞれ説かれていることが違います。
日本では大正時代からダンマパダが翻訳されるようになりましたが、解釈の難しい経典では訳者のブレない思想が大切になってきます。
その点で中村元氏の訳は非常にわかりやすく、『後代の解釈であって、原義ではない。』と一言添えてあるように、中村氏の世界観がしっかりと背景にあります。
それが、読者の心に響く内容となっているように思います。
それでは、実際にダンマパダにはどのようなことが書かれているのかをご紹介していきます。
経典に説かれる26章
『ブッダの真理のことば 感興のことば』の中にはダンマパダ(真理のことば)とウダーナヴァルガ(成興のことば)に関する解説が書かれています。
今回はダンマパダ(真理のことば)をクローズアップしてご紹介していきますね。
全26章423句に渡る解説ですが、各章の概要をお伝えします。
第1章 ひと組みずつ
ものごとは心にもとづき心を主とし、心によってつくり出される。
情欲、怒り、迷妄、執着、怨みを捨てる人こそ修行者であり、安息を得られる。
第2章 はげみ
怠けることは死んでいるも同然、つとめ励むかぎり死ぬことがない。
心ある人は宝を守るようにいそしみ、どんな小さな心のわずらいさえも焼きつくして前を進んでいく。
第3章 心
心は極めて難しく繊細なもの、英知ある人は心を守ることで安楽を得られる。
心が煩悩に汚されることなく、おもいが乱れることなく、目ざめている人には恐れがない。
第4章 花にちなんで
他人の過失を見るのではなく、自分がしたことしなかったことを見るべきである。
人として生まれたからには花かざりをつくるように多くの善いことを実行していくべきである。
第5章 愚かな人
旅の友には自分より優れた人か同等の人を選ぶべきであり、決して愚かな人を選んではならない。
愚かな人の愚行は報いがあらわれない間はそれを続けるが、罪の報いがあらわれたとき苦悩がやってくる。
第6章 賢い人
悪い友、卑しい人とは関わってはいけない、善い友、尊い人と交わるべきである。
賢者は非難と賞賛に動じず、真理を聞いて心は清らかである。
第7章 真人
自ら感官を静め、高ぶりをすて、汚れのなくなった人を神々でさえも羨む。
正しい知識によって解脱した人は心静かで、ことばも静かである。行ないも静かである。
第8章 千という数にちなんで
無益な千のことばより、聞いて心の静まる詩をひとつ聞くほうが価値がある。
素行が悪く心乱れて百年生きるより、徳行あり思い静に一日生きるほうが価値がある。
第9章 悪
悪の報いが熟しないあいだは、悪人でも幸運に遭うことがあるが、悪の報いが熟したら悪人はわざわいに遭う。
善の報いが熟しないあいだは、善人でもわざわいに遭うことがあるが、善の果報が熟したら善人は幸福に遭う。
第10章 暴力
もしも暴力によって生きものを害すれば、自分の幸せをもとめても死後には幸せが得られない。
荒々しいことばを言えば言われた人々は言い返し、やがて報復がやってくるであろう。
第11章 老いること
どんなに麗しい国王の車もいつかは朽ち果て、身体もまた老いに近づく。
しかし善い立派な人々の徳は老いることがない。
第12章 自己
自ら悪をなせば自ら汚れ、自ら悪をなさなければ、自ら浄(きよ)まる。
浄いのも浄くないのも自らの問題で、人は他人を浄めることができない。
第13章 世の中
世の中はうたかたのごとく王者の車のように美麗である。
愚者はそこに耽溺するが、心ある人はそれに執着しない。
第14章 ブッダ
悪しきことをなさず善いことを行ない、自己の心を浄めること、これが仏の教えである。
罵らず、そこなわず、戒律を守り、食事に関して適当な量を知り、淋しいところにひとり臥し、坐し、心に関することにつとめはげむこと、これがブッダの教えである。
第15章 楽しみ
周りに怨みをいだいている人々がいても怨むことなく、私たちは大いに楽しく生きよう。
聖者と共に住むのはつねに楽しい。愚かな人に会わなければ心はつねに楽しいであろう。
第16章 愛するもの
妄執から憂いや恐れが生じる。妄執を離れたならば、憂いは存しない。
徳行と見識とをそなえ、法にしたがって生き、真実を語り、自分のなすべきことを行なう人は人々から愛される。
第17章 怒り
怒らないことによって怒りにうち勝て。善いことによって悪いことにうち勝て。
分かち合うことによって物惜しみにうち勝て。真実によって虚言の人にうち勝て。
第18章 汚れ
他人の過失は目につくが、自己の過失は見えづらい。
他人の過失を探し求め、つねに怒りたける人は、煩悩の汚れが増大する。
第19章 道を実践する人
粗暴になることなくきまりにしたがい、公正なしかたで他人を導く人は正義を守る人であり、道を実践する人であり、聡明な人である。
大きくても小さくても悪をすべてとどめた人は、もろもろの悪を静め滅ぼしたのであるから、<道の人>と呼ばれる。
第20章 道
実に心が統一されれば豊かな知慧が生じ、心が統一されなければ豊かな知慧がほろびる。
生ずることとほろびることとのこの二種の道を知り、豊かな知慧が生ずるように自己をととのえなければならない。
第21章 さまざまなこと
他人を苦しめることで自分の快楽を求める人は、怨みから免れることができない。
すべきことをせずに、遊びたわむれ放逸なる者人は汚れが増す。
第22章 地獄
行ないがだらしなく、身のいましめが乱れ、清らかな行ないが出来ない人には大きな果報はやってこない。
恐れなくてよいことに恐れをいだき、恐れねばならないことに恐れをいだかない人は、邪(よこしま)な見解をいだいているから、地獄へ行くことになる。
第23章 象
戦場の象が、射られた矢にあたっても堪え忍ぶように、私たちは他者からの非難に堪えよう。
多くの人は実に性質(たち)が悪いからである。
第24章 愛執
恣(ほしいまま)のふるまいをする人には愛執が蔓草のようにはびこる。
林の中の猿が果実(このみ)を探し求めるように、(この世からかの世へと)あちこちにさまよう。
第25章 修行僧
修行僧はあらゆることがらについて慎しみ、すべての苦しみから脱れることができる。
精神の安定統一と明らかな知慧とがそなわっている人こそ、すでにニルヴァーナの近くにいる。
第26章 バラモン
静かに思い、塵埃(ちりけがれ)なくおちついて、為すべきことをなしとげ、煩悩を去り、最高の目的を達した人をバラモンと呼ぶ。
この世の禍福いずれにも執着することなく、憂いなく、汚れなく、清らかな人をバラモンと呼ぶ。
ダンマパダによる苦しみの解釈
ダンマパダには各章どのようなことが書いてあるかをダイジェストでご紹介しました。
次に、大学教授である佐々木閑氏の解説から人間がもつ『苦しみ』についてクローズアップしてみたいと思います。
釈迦族の王子ブッダは、とくに生、老、病、死について考えるようになりました。
これは人間の宿命であり、また人間が最も恐れるものであり、決して逃れられるものではありません。
これに対して、ブッダはこの世の諸行無常を説き
『永遠に変わらずにあるものはない。世界は自分の思いなど関係なく常に移り変わるものだからこそ苦しみが生まれる。』
といいました。
人生のうち、光り輝く楽しいときは永遠には続きません。
やがてくる生老病死という苦しみの影に恐れ、輪廻転生の中で何度もそれを経験しなくてはなりません。
人はなぜそれらを恐れるのでしょうか。
それは、私たちには自分を中心としてものごとを考え、作り上げた世界があるからです。
ブッダはこの苦しみの連続の中に自分だけの世界を見つけようとしましたが、自分だけの世界なんてものはないことに気づきました。
ないものを探していたことに気づいたのです。
苦しみというものは自分だけの世界で発生しているもの、自分の心が生み出したもの。
しかし、そもそも自分だけの世界なんてものはこの世の中には存在すらしていません。
それに気づいたブッダからは苦しみが消え、本当の安楽が訪れたといいます。
ダンマパダによる怨みの解釈
生老病死の苦しみは逃れられない運命ですが、人間が自ら生み出す苦しみのひとつに『怨み』というものがあります。
人はどうして怨みの感情を持ってしまうのでしょうか?
ブッダは、それは
と説いています。
人は生存への欲求から、世界が自分にとって都合のよい環境であることを願うものです。
しかし、その願いが叶わないと、人は判断力を失い
『あの人が邪魔をしたからうまくいかなくなった』
などと、逆怨みすることがあります。
その根拠のない思い込みを、ブッダは『無明(むみょう)』と表現しました。
上述しましたが、人は自分だけの世界を作り上げ、自分の思いどおりにしたいと誤った自我を募らせていくものです。
それはいつしか執着となり、家族も財産も地位も名声も友人も、自分の手の内に保有し続けたいと考えるようになります。
しかし、この世界にある全てのものは常に変わっていきます。
永遠には続かないものに永遠を求めるからこそ、執着が生まれ、それが苦しみに変わるのです。
友人も親も配偶者も子供も、決して自分の所有物ではありません。
ブッダは、
と言っています。
依存しているのは他でもない自分自身であり、自分の心を救えるのは自分しかいないことに気づきましょう。
人や環境が自分の思い通りにならなくて当たり前です。
誤った執着や依存を捨てることで、怨みの苦しみから開放されるのです。
ダンマパダと般若心経
ブッダの教えがまとめられたダンマパダの解説はいかがでしたか?
自分が今置かれている状況を照らし合わせてみたときに、ハッとする考え方もあったのでしゃないでしょうか。
さて、ダンマパダという言葉を聞いたことがない人であっても『般若心経』という言葉は聞いたことがあると思います。
ダンマパダと般若心経は同じ仏教の中でも異なる宗派でそれぞれ支持されています。
ダンマパダは上座部仏教で、般若心経は大乗仏教で評価されているため、一見すると全く別の経典のように感じられるかもしれません。
しかしながら、ダンマパダと般若心経は『諸行無常』という共通の世界観の上で書かれており、実は深い関わりがあるのです。
ダンマパダには日常の心構えが書かれており、般若心経にはものごとの空虚さが書かれています。
ダンマパダを深く読み進めてみると、277番に次のような言葉が出てきます。
『因果関係によって作り出されたすべてのものは無常であると智慧によって見るとき、人は苦しみをきらい離れる。これが、人が清らかになるための道である。』
これは、すべてのものが永遠に続くわけではないことを知ってこそ、人は清らかになれることを説いています。
一方、般若心経には、ひたすら、ものごとは常に変化し実態がないことが書かれています。
両者ともに
ということを『諸行無常』という共通の世界観をもって表しているように感じます。
つまりは、ダンマパダという生き方の指針の延長線上に般若心経があると考えるとわかりやすいかもしれません。
仏教の世界観に共鳴を感じた人がいれば、ぜひダンマパダ、般若心経と読んで頂きたいと思います。
まとめ
今回は仏典のひとつであるダンマパダをご紹介しましたが、いかがでしたか?
人間界では苦しみや恨みといった不快な感情を伴う経験を何度もしなければなりません。
ダンマパダには、それらは心の持ちようによって克服できるということが書かれています。
辛いことを辛いままにしているのは、とても苦しいことです。
前向きに幸せに生きて行くヒントが、ダンマパダには書かれてあります。
すべてはあなたの心の中にあるのです。