日本という国の始まりは、天孫降臨(てんそんこうりん)。
世界からみれば、まだ歴史の浅い日本ですが、その歴史自体が都市伝説というか、本当に伝説や神話と言えるものが多く存在します。
今回はその日本の歴史にまつわる都市伝説を7つお伝えいたします。
邪馬台国と卑弥呼、封印された歴史の都市伝説
歴史の教科書にも出てくる邪馬台国。
邪馬台国が栄えたのは、おそらく50~300年ごろ。
女王、卑弥呼が統治し、後の大和朝廷につながる、統一国家だったといわれています。
239年、卑弥呼は魏(中国)へ使いを送り、そのお礼として、魏の皇帝から『親魏倭王』という、日本の王の称号を与えられました。
しかしそれは、『魏志倭人伝』での伝承であって、日本の文献や史料では語られていません。
また、同じく中国の『旧唐書(くとうじょ)』という歴史書によると、『倭国(邪馬台国)』とは別に『日本国』という国があったとされています。
結果、中国の他の書物では、『倭国』と『日本国』という2つの国が、語られて行くことになるのですが、そもそもの歴史書自体を数人で書いていたり、細かな時代的記録が残っていないのもあり、実際のところ2つの国が存在していたのかは謎のままになっています。
今の九州あたりにあったとされる倭国が、関西へ移り住んだあとの大和朝廷が、中国でいうところの日本国で、順次移り住む過程で一時的に、別の国として扱われたのではないかという説もあります。
何しろ、他国の曖昧な歴史書の中に書かれたことですから、場所や時代もあやふやで、江戸の頃から、邪馬台国探しが行われてきたものの、いまだにその場所がどこであったのかすら、判明していません。
やっぱり邪馬台国なんてなかったんじゃ・・・
卑弥呼もいなかったんじゃ・・・
だけど、『魏志倭人伝』には書かれているし・・・
日本史学者たちの苦悩が思い浮かびます。
日本最古の歴史書は『古事記』と『日本書紀』で、『古事記』は712年に書かれています。
その400年ほどの間に、邪馬台国と卑弥呼は、忘れられた存在となってしまったのでしょうか? それとも、大和朝廷により、故意に隠蔽されてしまったのでしょうか?
卑弥呼が国を収めていたころは、国も安定し平和だったそうです。
その死後、男性の王になると、激しい戦が続き国は大混乱となりました。
卑弥呼の親族である壱与(いよ)姫を女王として、あとを継がせたところ、また国は安定したといわれています。
大和朝廷以降、国は常に男性が治めています。
女性が治めたほうが良い国になると思われる、邪馬台国の歴史は邪魔だったのかもしれません。
もちろん、そんな些細な理由ではなく、もっと大きな・・・それこそ日本神話にかかわる事実がかくされているとも考えられます。
いつか、もっと研究が進み、どこかに眠る、邪馬台国や卑弥呼の謎が解かれる日が来ることを祈るばかりです。
聖徳太子の預言書『未来記』の都市伝説
聖徳太子は、西暦574年に用明天皇の第二皇子として生まれ、摂政として遣隋使の派遣や、冠位十二階、十七条憲法の制定をおこなった、歴史の教科書はもちろん、紙幣でも日本人にはお馴染みの偉人です。
生まれた場所が、宮中の馬小屋の前だったため、『厩戸皇子(うまやどのおうじ)』と呼ばれ、キリストと同一視されたり、10人の言葉を同時に判別できたり、仏教を日本に広めたりと、とにかく、ものすごい逸話が多く、それだけでも都市伝説の塊ともいえる人物です。
その中で、意外と知られていないのは、聖徳太子が非常に優秀な預言者であったということ。
実際のところ、未来予知の能力なのか、占いの能力なのか、洞察力に優れていただけなのかは謎ですが、『日本書紀』には、『厩戸皇子、壯(そう)に及びて未然を知ろしめたもう』と記されており、聖徳太子には予知能力があったことを、正式な歴史書で明らかにしているのです。
では、その『予言』とはどういったものだったのでしょう?
太子の幻の預言書は『未来記』と呼ばれていますが、きちんとした文書としては残されておらず、『日本書紀』にも、具体的な予言の内容は記されていません。
これは、太子が政争に敗れた人物だったということと、勝利した権力者たちの手により、自分たちに都合の悪い部分や、理解できない言葉は残すべきではないと判断し、削除したためだったといわれています。
しかし、太子の能力やその予言を、残すべきものと考えた人物たちは、政治の干渉を受けにくい古い寺(四天王寺など)に『未来記』を隠し、日本仏法で最大最高の伏伝(秘密の言い伝え)として、4人の高僧に護らせたのだそうです。
『未来記』どころか、聖徳太子自体、実在しないという説もありますが、『未来記』や『太子の予言』は、歴史上の人物の伝承や古文書の中に、ときどき現れています。
『太平記』では、楠木正成が、四天王寺で『未来記』を見たと記されています。
『未来記』には、楠木の軍勢が勝利し、鎌倉幕府が倒れ、後醍醐天皇が復帰するという内容が書かれていたため、そこで己の天命を知り、その後、後醍醐天皇、足利尊氏、新田義貞らとともに、鎌倉幕府を倒したといわれています。
また、『明月記』でも、聖徳太子の墓の近くから、『未来記』の一部とされる石が発見され、そこには『承久の乱』について刻まれていたと記されていますし、本能寺の変、黒船来航、京都から東京(江戸)への首都移転に関しても予言されていたのです。
そこまで的中しているとなると、問題となってくるのは、現在以降の太子の予言。
太子は、人類の終焉ともいえる予言をしています。
それをわかりやすく説明すると、上記で少し書いた首都移転、それから200年過ぎた頃に、鳩槃荼(クバンダ)という末世に現れる悪鬼が来るため、首都は壊滅状態になり、首都機能を親(中枢)となる場所の他、7つに分けることになるであろうというもの。
『鳩槃荼』が何を意味しているのか、正確なことはわかりませんが、巷では、隕石の来襲、核による攻撃、火山の噴火、原発事故による放射能汚染など、さまざまな都市伝説が飛び交っています。
では、それはいつの話なのか?
鳥羽伏見の戦い、江戸城の無血開城を首都移転とするならば、1868年となるので、単純にそこから200年後とすると2068年あたりと考えられます。
聖徳太子の予言にどこまで信憑性があるのか、黒船来航などはコジツケではないのか、都市伝説の域を出ないものなので、考え方は人それぞれですが、2068年の予言の前にも太子の残した予言があります。
太子というよりも、釈迦が残したというのが正しいのかもしれませんが・・・太子の予言の前兆の鍵となるのが、法隆寺の五重塔だと言われています。
法隆寺に秘められた都市伝説
そもそも、太子が導入した『寺』という言葉は、ラテン語の『TERRA(地球・大地)』が由来ではないかといわれています。
そして、地球の象徴として法隆寺を建立し、この全体で未来の予言を示しているという都市伝説もあります。
西に位置する『西院伽藍』は西洋文明の行く末を、東に位置する『東院伽藍』は東洋文明の行く末を表しているというものです。
そして、『西院伽藍』には五重塔があり、ここには釈迦の言葉を集めた『大集経』の中から、釈迦入滅後500年ごとの人類の命運が、1階~5階の内部に描かれていたとされています。
1階 : わが滅度の後の500歳は『解脱が堅固』(仏法により悟りを得て解脱する人が多い)
2階 : 次の500歳は『禅定(ぜんじょう)堅固』(仏道を修行する人が多い)
3階 : 次の500歳は『読経(どきょう)堅固』(経を読んだり、聞いたりして学ぶ人が多い)
4階 : 次の500歳は『多造塔寺(たぞうとうじ)堅固』(寺や仏塔の建立が増える)
5階 : 次の500歳は『闘諍言訟(とうじょうごんしょう)して白法隠没(びゃくほうおんもつ)せん』(戦争や争いが繰り返され、『白法』が沈む)
しかし、これらの絵は、『自分より前の時代に、素晴らしい時代が存在したということがあってはならぬ』とした、豊臣秀吉により塗りつぶされてしまったそうです。
したがって、今では言い伝えとしてしか語られていません。
ここで重要なのは、5階に描かれていたもの。
5階には、一部に天人と天馬が描かれ、その他の部分には、餓鬼界、修羅界、灼熱地獄、愛欲地獄で、多くの人間がもがき苦しんでいる絵が描かれていたそうです。
最上階の5階とはすなわち、釈迦が入滅してから2500年後の世界。
釈迦入滅には諸説ありますが、欧米の学者の計算によると、BC483年、484年、487年、500年となるそうなので、だいたい、2000年、2013年、2016年、2017年となり、5階に描かれた世界はちょうど現在の世で、同時に『白法が沈む』世界となります。
では『白法』とは何でしょう?
五重塔は西院伽藍にあるので、単純に考えると、現在の日本文化の中心となっている、西洋文化と考えられます。
2000年、2013年はすでに過ぎているので、この予言が本当ならば、2016年か、2017年頃には西洋の物質中心の文明が沈む・・・もっと言うなら、第三次世界大戦のような争いが起こった上で、いずれ世界の終焉を迎えるかもしれないということになるのです。
その一方で、東院伽藍には夢殿が建立されており、堂内には、聖徳太子の等身像とも言われている『救世観音(くぜかんのん)像』が安置されています。
救世は、人々を世の苦しみから救うという意味があり、聖徳太子の等身像と言われていることからも、救世主となる聖徳太子の生まれ変わりが降臨し、人々を導くと考えることもできます。
救世主や生まれ変わり・・・まさにTHE都市伝説といった感じです。
正直、地球滅亡やこの世の終焉と言われてもピンときませんが、予言は予言として、避けられる方法もあるのではないでしょうか。
それを考えることが、今の世の課題なのかもしれません。
まったくの余談ですが、夢殿の救世観音像。
本当に等身大太子像なのだとしたら、かなりのイケメンで、178.8cmと、当時としてはかなりの高身長だったのですね。
救世主云々はともかく、生まれ変わりさんが現れるなら、見てみたいかもしれません。
安倍晴明の母の都市伝説
安倍晴明は、小説や漫画、ドラマ、映画、ゲーム、近年ではフィギュアスケートの題材としても注目された、平安時代に活躍した陰陽師です。
しかし、どの作品を見ても、安倍晴明の出生に関しては、軽く『白狐の子』というキーワードが出るくらいです。
え? 狐の子ってどういうこと?
という疑問を持っても、『まあ、狐の子だから不思議な力があるってことか』と、何となく納得させられて、うやむやなまま、物語はどんどん進行してしまいます。
晴明の母親の名は『葛の葉』といい、この葛の葉が白狐であるという伝説があります。
葛の葉を主人公とした、浄瑠璃、文楽、歌舞伎、講談、芝居など多数ありますので、晴明だけでなく、実は母親も有名な人・・・狐? 物の怪? なのです。
伝説は諸説ありますが、大体の内容を簡単に説明します。
村上天皇の時代(926~927年)、河内国に住んでいた石川悪右衛門が、妻の病気を治すために、兄の蘆屋道満に占ってもらったところ、野狐の生き肝が必要だと言われたため、信太の森(現在の大阪府和泉市)に行って狐を追いかけていました。
追われていた白狐を、安倍野(現在の大阪府大阪市阿倍野区)に住んでいた安倍保名が助けたのですが、その際にけがをしてしまいました。
そこに葛の葉という女性がやってきて、保名を介抱して家まで送りとどけ、見舞っているうちに恋仲になり結婚。
童子丸という子供が生まれ幸せに暮らしていましたが、童子丸が5歳のとき、葛の葉の正体が保名に助けられた白狐だとバレてしまいます。
正体を知られてしまった葛の葉は、
恋しくば 尋ね来て見よ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉
という一首を残し、信太の森へと帰ってしまいました。
もうおわかりですね。
葛の葉の息子、童子丸こそ、のちの安倍晴明です。
その数年後に、童子丸から晴明へと名を改め、陰陽師となり、因縁ある蘆屋道満と戦い…と、このあたりのお話は安倍晴明の物語として、いろいろと描かれているものになります。
ここで気になるのは、葛の葉と保名の話は、あくまでも伝説として語り継がれているものだということ。
しかし、安倍晴明は歴史上、実在していた人物なので、伝説と史実がごちゃ混ぜになっているのです。
葛の葉の伝説については、『被差別部落出身の娘と一般民との結婚悲劇』を白狐に置き換えたものとする解釈もあり、事実、葛の葉伝説にゆかりのある、信太森葛葉稲荷神社(しのだのもりくずのはいなりじんじゃ)の近くには、被差別部落があり、そこでは民間陰陽師が盛んであったそうです。
葛の葉伝説自体、土御門家(晴明の子孫の家柄)に取り込まれた民間陰陽師たちが、晴明を神格化し崇拝する気持ちと、差別を受けた辛い思いをのせて、広めたものであったという説もあります。
都市伝説としては、白狐であってほしいと思ってしまうお話です。
真田幸村の少し残念な都市伝説
● 真田幸村という名前
真田幸村は、大阪夏の陣で3500人の兵を持って、徳川家康の本陣まで攻め込んだ武勇伝が有名で、歴史が好きな人のみならず、マンガやゲームなどで大人気となった、安室桃山時代から江戸時代初期の武将です。
この真田幸村という名前、世間に浸透していますが、本名ではありません。
実名は真田信繁で、直筆の書状を始め、生前の史料で『幸村』の名前が使われているものはなく、その呼び名は夏の陣から約60年、寛文12年(1672年)の軍記物語、『難波戦記』(万年頼方・二階堂行憲の著)に突如として現れたといわれています。
その後はなぜか『幸村』の名前の方が浸透し、兄である信之の子孫が藩主であった、松代藩の正史でも、『幸村』の名前で記述されているそうです。
大阪夏の陣から約200年の後、文化6年(1809年)に、徳川幕府から『幸村』の名前について、問い合わせを受けた松代の真田家は、
『当家では信繁と把握している。幸村の名は、彼が大阪入場後に名乗ったもの』
と回答していることから、実は本人が名乗っていたのではないか? という説もあります。
『幸』という字は、真田家や本家である海野家の通字(とおりじ)で、祖父の幸隆、父の昌幸にも使われているので、『幸』を使った名を名乗りたかったのかもしれません。
『村』については徳川に仇をなすといわれた、妖刀村正からつけたなど、諸説あるものの謎のままです。
●実在して欲しかった真田十勇士
真田幸村が、忍者の真田十勇士を従えて、少数精鋭で立ち向かうさまは、実に心躍る物語です。
が、もちろん真田十勇士は実在しません。
『難波戦記』や『真田三代記』をもとにして大正時代に書かれた、立川文庫の『猿飛佐助』という講談本をきっかけに人気を博し、他のメンバーに派生、いくつものストーリーが作り出され、のちに『真田十勇士』が刊行されました。
猿飛佐助 : 十勇士の筆頭で忍者
霧隠才蔵 : 甲賀出身の忍者
三好清海入道 : 鉄の棒を振り回す怪力の僧侶
三好伊三入道 : 清海の弟
由利鎌之助 : 鎖鎌の名人
筧十蔵 : 鉄砲の名手
海野六郎 : 真田家に古くからつかえる参謀
穴山小助 : 信玄の弟、穴山梅雪の甥で幸村の影武者
根津甚八 : 幸村の影武者
望月六郎 : 幸村の影武者
海野六郎などは、真田本家の姓であることから、モデルとなったのでは? と思われる人物が数人いますが、それも定かではありません。
●幸村の死に様
真田幸村の最大にカッコイイ見せ場といえば、その死に様。
大阪夏の陣で徳川本陣への数度に渡る突撃戦により、体力の限界を感じ、安居神社の境内で休息を取っていたときのこと。
福井藩士、松平忠直隊鉄砲組頭の西尾宗次に発見され、『我は真田信繁である。わしの首を手柄にされよ』という言葉を残して討ち取られ、男気あふれる最後をむかえたのでした。
が・・・福井にて、その最後を覆す史料が見つかってしまいました。
そこには、男気あふれる逸話は書かれておらず、戦の中でたくさんの人が討ち取られ、すでに誰が誰だかもわからない多くの首が転がる中、『これは幸村(信繁)の首に違いない』と思われる首を、幸村の首としたそうです。
それゆえ、幸村には幾人もの影武者がいたという伝承もあったことから、実は幸村は死んでおらず、生き延びて天寿を全うしたのでは? という都市伝説も存在しています。
ちゃっかり天寿を全うしていたのだとしたら、それはそれで幸村らしいと感じてしまいますが、武将の最後としては、『わしの首を手柄にされよ』で終わっておいたほうが、誉(ほまれ)であったのかもしれません。
実は気遣いの人だった織田信長の都市伝説
戦国武将の中で、最も人気が高いといっても過言ではない織田信長。
自ら第六天魔王と称し、強大な既存権力をことごとく蹴散らし、残忍で横暴で傍若無人、人に厳しく冷酷で、短気で恐ろしい武将と伝えられています。
しかしそれは、後付けされたもので、史実とはどうやら違う部分が多いようなのです。
敵対勢力に対しての残虐な行いは、あの時代の武将であれば、ある意味当たり前の行為でもあり、なぜ信長ばかりが突出して、残虐性を問われてしまったのかが不思議です。
多くの武将たちが、他国との盟約を反故にし、姻戚関係にある武将を裏切り、攻め入っている中、信長自らは、盟約を破ったり、直接攻撃を仕掛けたりすることはありませんでした。
身分が低い者や、最初は敵対していたり、自分を裏切ったことがある相手であっても、信長が望む能力を持った人間であれば、家臣として重用したという一面もあります。
このことからも、『人(人間性)を見る目』はともかく、『人の能力を見抜く目』を持っていたと考えられますし、許しの気持ちが大きかった人物であると考えられます。
現に秀吉も、元は下層階級の出身にも関わらず、信長にその能力がかわれて、どんどん出世し、果ては天下人にまでのし上がっています。
ほかにも、秀吉に対する愚痴を言う、ねね(秀吉の正室)を、優しく手紙で宥めたりもしています。
部下の奥さんに対するフォローまで、なんとも、律儀な人物だったことがうかがわれます。
また、若かりし頃から、身分に関係なく、農民庶民と仲良くともに笑い合っていたがゆえに、うつけ者といわれていたという話は有名です。
それは単純に、当時の信長が家に反発していただけだという人もいますが、そんな理由だけならば、お盆に安土城をライトアップして、庶民を楽しませたりするでしょうか?
もっとも拝観料もとっていることですし、儲かる儲からないはともかく、諸国へ信長の力や斬新さを見せつけるための、行為であったと考えられなくもないですが。
だとしても信長は、家柄ばかりを気にしているほかの武将たちにさきがけ、民衆を味方につける強みや、能力がある者をうまく使う強みを、理解していたのでしょう。
恐ろしくて、超人ともいえる信長像というのは、それこそ戦国時代における都市伝説として、武将や武士、民衆などが語り継いだものなのかもしれません。
死体を収入源とした山田浅右衛門の怖い話
山田浅右衛門(やまだあさえもん)は、時代劇などで、首切り浅右衛門、人斬り浅右衛門と称される、首切り役人として登場することが多い、江戸時代の御様御用(おためしごよう)という刀剣の試し斬り役を務めていた人物です。
御様御用という役目自体は、腰物奉行(こしものぶぎょう)の支配下にあった、れっきとした幕府の役目だったのですが、浅右衛門家は旗本や御家人ではなく浪人であったそうです。
それは、御様御用という役目には技術が必要なのですが、浅右衛門家は代々の世襲制だったため、その技術に満たない者があらわれる可能性があったこと、最大の収入源には死の穢れがつきまとうことなどの理由があるといわれています。
浅右衛門家は浪人の身分ですから、幕府から決まった知行(ちぎょう)を貰えるわけではなかったのですが、その生活はとても裕福なものだったそうです。
では、その死の穢れ(けがれ)がつきまとうという、最大の収入源はいったい何だったのでしょう。
それは『死体』でした。
首切り役人と呼ばれるほどですので、当然、処刑人としての役目があります。
そして、その罪人の死体は、山田浅右衛門家が拝領することを許されていました。
何に使うのかというと、まずは御様御用(おためしごよう)。
当時、『刀の斬れ味を確認するには、人を斬って試すのが一番である』というのが、常識だったのですが、戦国の世でもあるまいし、さすがに生きた人間を斬ることは許されませんでしたので、処刑後の罪人の身体を再利用したのです。
確かに人を斬るための刀ですから、その斬れ味、斬ったときの人の脂や血の付き方、骨に当たった場合の刃こぼれなどを確認するためには、そうするしかなかったのかもしれません。
また、浅右衛門が試すばかりではなく、自分自身で試し斬りをする武士に、死体を売ったり、遊女の約束用の小指を、死体から切り取って売却もしていたそうです。(昔の遊女は心変わりはしませんという証に、自分の小指を切り落として、上客に渡す習慣がありました。)
さらには副収入として、罪人の死体から抜いた、肝臓、脳、胆嚢、胆汁・・・要するに人間の内臓や脂を原料として、薬を製造していました。
内臓を乾燥させ、粉にした後に丸薬にしたものは、浅右衛門丸、人胆丸などと呼ばれ、滋養強壮に優れた、労咳(肺結核)の特効薬とされ、製造過程で出る胆汁や人の油脂などは、貝殻に入れて、梅毒などの塗り薬として販売され、大きな収入を得ていたのです。
浪人ですから一応は武士ですが、これでは死体の商人です。
穢れているといわれても仕方がなかったでしょう。
ただし、浅右衛門は、儲けたぶんの金子を、死んでいった者たちの供養のために、惜しみなく使ったという逸話もあります。
そういう意味では、処刑され、誰からも供養されずに葬られたかもしれない罪人たちからすると、処刑はあくまでも役目と割り切れば、自分たちを供養してくれた、ありがたい人物ということになるのかもしれません。
それにしても、今でもヒト由来の生薬という言葉をよく聞きますが、本当に『人』なのだなと思うと、ゾッとしてしまいますね。
人を自分の体内に取り込むということは、人喰いと同じとも考えられるのですから・・・。
まとめ
歴史にまつわる都市伝説はいかがでしたでしょうか?
歴史であるかぎり、史実というものが必ず存在しているはずですから、実際に解明されてしまえば、『なーんだ、そんなことか』ということが、ほとんどでしょう。
ですが、歴史はどんどん積み重なっていきます。
そのぶん、都市伝説も生み出されます。
たった1秒前もすでに歴史のひとつ。
いつか、あなた自身も都市伝説になるかもしれません。