人間は感情を持つ生き物です。
それゆえ、生きていると嫌なことも辛いこともあります。
人の言動や環境の変化に一喜一憂して疲れてしまうこと、ありますよね?
そんなとき、無の境地に立てたらどんなに楽になるだろうと考えたことはありませんか?
感情的にならずに冷静でいたいと思っても、それをコントロールするのは難しいものです。
そもそも、無の境地とはどういう意味なのでしょうか?
無の境地とは、人間の本能から解き放たれ精神の迷いがなくなった状態を表しています。
目の前に困難が立ちはだかっても、パニックに陥ることなく、平常心を保つことができる状態を「無の境地」と言います。
仏教では『悟りをひらく』という言葉が使われます。
修行を積んだお坊さんでも、その境地にたどり着くには30年かかると言われています。
しかし、私たちでも無の境地に近づくことはできるのではないでしょうか。
自分を見失ってしまうのは、目の前のショックを受容できずに情動に流されてしまうからです。
自分にとって受容できない物事が起きたとき、自分の感覚や思考、感情がどのように動くのかを観察し、認識できれば適切な対処ができるようになります。
パニックに陥る多くのケースでは、自分は何を不快に思い、不快なことが起きるとどんな反応を示すのかがわかっていません。
無の境地に近づくためには、まず自分自身を知ることから始めなければならないのです。
無の境地とは?
無の境地というキーワードから、瞑想や座禅を思い浮かべる人は多いのではないでしょうか?
無とは実質のない世界であり、この世には存在しないものです。
無の境地は、イマジネーションの世界を指すものでもなければ、トランス状態を指すものでもありません。
それゆえ、無という概念は本来、人間には理解することすらできないものなのかもしれません。
人間の心とは弱いもので、少しの隙間に誘惑や煩悩が入り込んでしまいます。
座禅で求められる無の境地とは、自分の心から離れ、あるがままの姿を受け入れることです。
こだわりを捨て、自分と他の境界をなくし、自然と一体になる。
座禅に集中していると、だんだん周りの音が良く聴こえるようになってきます。
風の音、虫の声、水が流れる音。
そうして、いつしか自分が風の一部であるかのような気がしたり、ここがどこであるかさえ気にならなくなってきます。
雑念に捕らわれることなく集中している状態、それが座禅で求められる「無の境地」です。
それでは、私たちはどういうときに無の境地を求めるのでしょうか?
無の境地を意識する瞬間とはどんなときか、考えてみましょう。
無我の境地とは?
ちなみに、無の境地と似た言葉に「無我の境地」というものがあります。
無我の境地とは
己の限界を超えたもののみが到達できるという場所、常人には入ることのできない領域に到達すること、到達した状態のこと。
無我の境地は無我夢中でなにかに集中する意味合いなのに対し、無の境地は自我から解き放たれる・解放されるといった意味合いです。
無の境地と無我の境地は、漢字は似ていますが、意味は随分と異なります。
無の境地を意識するのはどんなとき?
無の境地とは一体何なのか、どんなときに意識するのかを振り返ってみることで理解しやすくなります。
ある女性若手リーダーの職場での苦悩を例に挙げてみましょう。
彼女は今年から5人を率いるチームのリーダーに抜擢されました。そして、性別も年齢も異なる部下を持ちました。
しかし、仕事のできる彼女ですが、習熟度の異なる彼らの指導方法に行き詰ってしまいました。
30歳になったばかりの彼女が、40代男性、30代男性、30代女性、20代男性、20代女性の部下を持ったのです。
彼女がリーダーに就任する前に、30代女性がうつ病で休職に入り、30代男性は彼女の指示を聞きません。
年下の上司に抵抗があるのか、彼女の指導が厳しすぎるのかはわかりません。
しかし、彼女は仕事をしない30代男性のことを社会人としてのスキル不足と考えています。
仕事の依頼をしても『忙しいのでできません。』と、口ではなくメールで返ってくることに対して憤りを感じています。
あるとき、ふと彼女は
「自分だけが頑張っていて、空回りしている。イライラしてばかりで、部下と話すこともストレスなので、もう辞めてしまいたい。
このマイナスの感情を費やすエネルギーを無の境地に追いやって、本来の仕事に注力することができたら、どんなに気持ちが楽になるだろう。」
そう思うようになりました。
私たちが無の境地に思いを馳せるのは、
嫌なことがあるとき。
人とのコミュニケーションがうまくいかないとき。
そんなときではないでしょうか。
無の境地の意味とは?
そもそも、無の境地とはどういう意味なのでしょうか?
瞑想や悟りをひらくこと、無意識の世界というキーワードを思い浮かべる人もいるでしょう。
そもそも、この煩悩溢れる世界の中で『無』を見つけることはできません。
何かを見つけたのなら、その時点で何かが『有』るからでしょう。
それでは、無の境地とは異次元の精神世界にしか存在しないものなのでしょうか?
仏教で説かれる『涅槃(ねはん)』とは、人間の本能から解き放たれ、精神の迷いがなくなった状態を表しています。
自我のない、安らぎの世界です。
物質世界にいる以上、無の境地にたどり着くことは不可能でしょう。
しかし、無の境地に近づくことはできます。
つまりは、「余計な思考や感情を脱ぎ去り、涅槃寂静の状態、つまり、あるがまま本来の姿になる」ということです。
人はすぐに感情に流され、私利私欲に囚われたとき、正常な判断ができなくなってしまいます。
無の境地に精神を置くことで、余計なフィルターを拭い去ることができれば、真理に近づけるのではないでしょうか。
それでも、仏教でいう涅槃静寂の世界は現実世界からあまりに遠く感じます。
無の境地の意味はなんとなくわかっても、実際にそれを現実世界にどうやって当てはめれば良いのかわからない人も多いでしょう。
無の境地の使い方を地上レベルに落とし込んで考えてみると、理解しやすくなります。
無の境地とは高レジリエンスなこと
レジリエンスとは、「精神的な回復力」のことを指しています。
人は自分が嫌だと思うことや不快なことが起きると、ストレス反応を示します。
レジリエンスが低い人は、そのストレス反応から無意識に筋肉が反射してこわばってしまいます。
アスリートであれば当然本来の力を発揮できなくなってしまいますし、災害時であれば逃げ遅れてしまうこともあるでしょう。
高レジリエンスであるということは、どんな脅威にさらされようとも、反応することなく適切な対処ができるということです。
脅威を前にすると、誰しも感情が発動し、不安や恐怖に駆られます。
つまり、切迫した状態では、余計な感情が邪魔をして即座に行動できなくなってしまいます。
武術を学ぶ人やオリンピック選手などは、極限状態でも成果が出せるように厳しい鍛錬を積んでいます。
どんな人でも不安や緊張といった感覚や感情をなくすことはできません。
しかし、五感を『感じている』だけで、それに流されず平常心を保つことはできます。
強いストレスにさらされても強靭な心でいられるレジリエンスを手に入れるには、日頃から自分自身をモニタリングすることが大切です。
ショックなことが起きたとき、自分の感覚や思考、感情がどのように動くのかを見つめるのです。
『無知の知』を説いたソクラテスは、『汝自身を知れ』と言っています。
自分を取り巻く感情やプライドを捨て去り、自分の内側へ目を向けてみましょう。
現実世界で言う無の境地とは、高レジリエンスな状態のことを指しているのかもしれません。
無の境地で偉業を成し遂げる人々
偉業を成し遂げることは、並大抵の努力では叶いません。
無の境地に身を置いてこそ、他者に成し得ないことができるのだという事例を2つご紹介します。
ラジウムを発見したキュリー夫人は、過去に二度ノーベル賞を受賞した偉人です。
大学生のとき、時間を忘れて、科学と物理に没頭していました。
食事も睡眠も取らず研究に没頭し、その情熱は人が話しかけても気づかないほどだったと言います。
また、ある野鳥カメラマンの男性は、鳥が飛び立つ瞬間を撮影するのに2時間かけて近づきます。
気配を消して、ひたすらその瞬間がくるのを待ちます。
そして、野鳥が飛び立つ瞬間を躍動感溢れる描写でとらえたのです。
人は何かに没頭しているとき、一生懸命なときは、それを苦と思わず、余計な雑念も持っていません。
たとえ、それが周りから苦難の道に見られようとも、信念を持って自分の限界に近づいたときこそ、潜在エネルギーが大きく花開されるのではないでしょうか。
そして、その結果として、素晴らしい発見や創造が生み出されるのではないでしょうか。
ですから、真の無の境地とは、ある意味で最もエネルギーの高まった状態であると言えるかもしれません。
また、その瞬間に魂は喜びを感じ、人間としての器も大きくなっていくように思えます。
無の境地に近づいたとき、人は余計な感情を捨て、魂が求める、あるがままの姿でいられるのでしょう。
まとめ
私たちが生きているこの世界には、煩悩が溢れています。
その中で、無の境地に到達しようとするのは、まさにそれだけで修行と言えます。
日常生活で心配事があったり、嫌なことがあったりすると、無意識に心は不安に覆われ、体は緊張して本来の自分ではなくなってしまいます。
いつも無理なくできていたことが、できなくなってしまうこともあるでしょう。
冒頭にご紹介した女性リーダーも、感情を心から切り離し、平常心を保って部下を指導していくことで、必ず新たなステージへ成長できるはずです。
この世界は魂が修行を積む場ですから、理不尽なことやうまくいかないことに何度もぶち当たります。
それでも、無の境地に意識を置くことで、困難を乗り越えていけるのではないでしょうか。
そしてそれは、必ず魂の成長につながっていくはずです。