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そうだったのか!? 天上天下唯我独尊から学ぶ4つの真理

天上天下唯我独尊

私たちの生活の中に深く根付いた仏教、そこから生まれた言葉は数多くあり、日常何気なく使っているものもたくさんあります。その中でも特に有名なもののひとつに、仏教の開祖仏陀(以下ブッダと表します)が言ったといわれている『天上天下唯我独尊』があります。

この言葉は現在『自分がこの世で一番偉い』という意味合いにとられ、傍若無人に振舞う若者などが服に刺繍しているという印象が強いのですが、一切の衆生を救うとしたブッダが本当にこのような傲慢な意味で言ったのでしょうか。

仏教には大乗仏教や上座部仏教などがあり、そこからまた様々な宗派に分かれています。そしてその数だけブッダの言葉も解釈があるのです。

今回は大乗仏教の観点からみた『天上天下唯我独尊』のお話をしたいと思います。




ブッダの最初の教えである誕生偈(げ)である

この『天上天下唯我独尊』がどのような状況で生まれた言葉かご存知ですか?

仏教の開祖であるブッダ(ゴータマ・シッダールタ)が生まれた時に発した言葉だといわれています。ではブッダ誕生のエピソードを簡単にご紹介します。

シャーシャ族のマーヤー(摩耶)夫人は、神聖な白象が胎内に宿る夢を見ます。そのマーヤー夫人が臨月になり、出産のために故郷であるデーヴァダッハへ帰る途中、ルンビニー村で休息をとります。

そこには、美しいサーラ(沙羅)の樹がありました。その美しさに思わず枝に手を伸ばしたところマーヤー夫人の右脇からブッダが誕生します。

数多の神や人々から散華供養をうけるなか、ブッダはすっくと立ち上がり、東西南北にそれぞれ七歩ずつ歩いたあとに右手を上に挙げ、左手を下に指しながら『天上天下唯我独尊』に始まる誕生偈(げ)を唱えました。

この誕生偈(げ)は別名『四方七歩の宣言』ともいい、この言葉を理解することはすなわち仏教精神を理解することにつながるといわれています。

誕生偈はブッダの尊さを強調したもの

『天上天下唯我独尊』は唐の僧玄奘(以下三蔵法師)が記した大唐西域記に登場します。

国禁を犯して(当時の法律で国外への旅行が禁止されていた)求法の旅にでた三蔵法師は数多くの経巻を持ち帰ります。それを訳すために当時の皇帝太宗に願い出てそれを聞き入れられますが、その代わりに西方域の詳しい報告書を出すようにと命令を受けます。

それが大唐西域記です。この大唐西域記巻六に
『天上天下唯我独尊 今茲而往生分己尽』
と記されています。

最初の8字のみクローズアップされていますが、本来は16字からなる文章なのです。この後半の8字がほとんど知られていないため、まるでブッダが思い上がったことを生まれてきた時に言ったように感じられてしまうのです。

この16字を簡単に訳すとこのような意味になります。

『この世界の中で、自分が一番尊いものである。なぜなら、これが最後の生であり再び迷いの世界に流転しないからである』

これは、三蔵法師が大乗仏教の観点からブッダをみた言葉です。大乗仏教にはブッダが解脱したことが尊いという考えがあります。解脱とは苦に満ちた輪廻からはずれて悟りの世界へと脱出する、つまり生まれ変わらないということを意味します。

悟りとは涅槃(ニルヴァーナ)ともいい、煩悩がなくなった状態のことを指します。この世で自分が一番偉い! という意味ではなく、煩悩の束縛から解き放たれて輪廻から外れる、ただひとりの存在だから、自分は尊いということなのです。

四方七歩の宣言の真理

『天上天下唯我独尊』は四方七歩の宣言ともいわれています、それはブッダが誕生偈を言われた目的と、四方七歩したことが切り離せないものだからです。

まず四方とは、そのままの意味でいうと東西南北4つの方角を指しますが、もっと広い意味で捉えると全ての場所や空間をいいます。つまり、各方向に歩いたというのはブッダの視野から外れるものや存在はひとつとしてないということです。

すべての存在を分け隔てることなく平等に見つめ、天上天下からはじまる誕生偈(げ)を発することで、人々に安らぎの教えを伝えようと決意したといえます。そう考えると、この言葉はブッダの決意表明と捉えることもできます。

そして、七歩歩いたの意味ですが、ブッダが苦悩に満ちた6つの世界(六道界)を生きながらにして超越しているということを指しています。この四方七歩の宣言からブッダの生まれながらの人知を超えた超越性と一切のものを救う法を教え広めるという固い決意を読み取ることができます。

人間の尊厳を教えるもの

『天上天下唯我独尊』のもうひとつの解釈に『個人としてこの世界に存在する自分=我はそれぞれが唯一無二なのだから皆が特別であり尊いのだ』というものがあります。

私たちは普段、つい自分のことのみ考え、他の人のことを考えずに行動してしまうことがあります。このように自分のことしか考えないことを我執(がしゅう)といい、煩悩の一つとされています。

煩悩は心をこれでもかと痛めつけます、その苦しみを取り除くために毎年大晦日の夜に煩悩の数といわれる108回梵鐘をつく行事が行われるほどです。

自分を尊重するのと同様に他の人を尊重することができたなら日々の苦しみが消え、心が楽になってくるはずです。

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